幕末において菟原・八部・有馬3郡133ヵ村に助郷を課したことがある。
助郷の村々は正人馬は負担がたいへんなので代銀によることとしたが、交通の頻繁になるにしたがって宿駅の負担は増すばかりで、これに対する負担の分担を村々に依頼したが村方がこれを拒絶して、訴訟沙汰となったことがあり、宿駅の経済のことは当時の大なる社会問題であった。
神戸村と須磨村は、間の宿として、独立して公用荷物・先触れ等の継立てに当り、なんらの補助もなかったから、もちろん兵庫宿駅の助郷は除外されていた。
さらに、兵庫には本陣のほかに浜本陣なるものがあった。
両者は混同されることがあるが、これは浜本陣まったく性質のちがうもので、浜本陣は兵庫以外にない。
浜本陣とは個々の大名と直接結び付く問屋業者であって、おのおのその大名の国産を売買する特権を与えられるとともに、諸般の用達を命ぜられていた。
このためその大名の参勤交代にあたっては、邸宅を宿泊または休息に提供することになったために、本陣の名を生じ、その位置が南浜にあったため、宿本陣と区別するために、浜本陣と称せられたものであった。
浜本陣の数は時代によって増減があったようであるが、幕末でみると9軒であった。
福岡・松江・秋月・山口・宇和島・津藩
薩摩藩
佐賀藩
臼杵藩
松山藩
久留米・府内藩
岡山・高松藩
杵築・延岡藩
熊本藩
絵
小豆屋肥前屋
(鷹見)右近右衛門
(畠山)助右衛門
(諸井)粘右衛門屋
(増田)三太夫屋
(三好)佐左衛門屋
(九鬼)喜右衛門屋
(南条)新九郎屋
(県)吉右衛門屋
(安田)惣兵衛
これら浜本陣と諸侯との関係は、古いものは慶長にまでさかのぼるものがあり、その関係はすこぶる密接であった。
その特権に対しては、諸侯はつとめてこれを保護し、国産の売買には口銭を与え、中には1ヵ年の口銭高200石に達するものもあり、別に6人扶持を与えられていたから、浜本陣による収入は大きかった。
そのかわり諸侯の御用金を命ぜられることもしばしばあった。