第一幕末から開港まで

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摂海の幕府が勅許を待たず安政5年(1858)5ヵ国と通商条約を結んだことは世論を沸騰させ、幕府防備はこれに対して安政大獄をもってしたが、井伊大老は桜田門外に倒れることになった。

 

幕府は朝廷の命令に従わざるを得ないこととなり、文久3年(1863)3月と4月の天皇の嬢夷祈願の加茂神社と石清水神社の参拝には将軍が従った。

 

そして嬢夷実行の期限を同5月とすることを答えたのであった。

 

しかし、将軍はそれを実行せずに江戸へ帰ってしまった。

 

このあとを受けたのが擁夷派の8月2日の大和への嬢夷親征発表であった。

 

世論混沌とする中で外国船の摂海(大阪湾)へ接近するもの多く、それが京都に近いため摂海防備論は一だんと喧しくなった。

 

幕府から長州藩に対して安政5年(1858)6月、兵庫付近一帯の警備の命を下したので、同年秋、福原左近之允が兵庫警備場総奉行に任命され、それ以後何人かの交替をみた。

 

長州藩の警備地域というのが、武庫川以西須磨に及ぶ広い範囲であったため、長州藩はその駐屯地として、沿岸5ヵ所に9万3千坪の地を要求したが、幕府がこれに応じなかったために、その警備の実は挙がらなかった。

 

萬延元年(1860)に至って、はじめて幕府は、打出村に5千数百坪、東須磨村に約4200坪の地所を与えたので、ここに屯営を建築し戌兵を置いた。

 

さらに筒井・5毛に屯営を置き、大砲116台を兵庫出在家町と大石村浜に置き、戌兵は3千に達したといわれ、常に銃砲訓練をし、外国軍艦入港とあれば直ちに駈けつけた。

 

当時の大阪湾沿岸は、幕府領では幕府の手で、大名領ではその藩主の手で、いたる所に砲台の建設が急がれ、すこぶる意気軒昂たるものがあった。

 

長州藩の警備の任が文久3年(1863)3月解かれると、そのあとは3藩に分担させられる。