船謬場は、嘉永7年(1854)9月1日に着手し、安政2年(1855)9月に完成したものであった。
船謬場というのは船底を燥べて船虫を駆除したり、付着している貝殻を取ったりして船の耐久力をはかるもので、それまで讃岐の多度津まで行かなければならなかった不便を解消すべく吉兵衛が努力してつくったものであった。
吉兵衛はそのたあ財産を使いはたし、船謬場も抵当に入るという仕末であった。
このころ幕府は大阪湾の各要地に砲台を製造することに決した。
神戸地域では湊川出州と和田岬と舞子の3ヵ所であった。
前2者は海軍操練所が計画し、後者は明石藩がこれに当った。
前2者は元治元年(1864)6月にほぼ完成したが、後者は未完に終ったようである。
海軍操練所は、海軍所、海軍営、海軍局、操練局といろいろの名でよばれているが、勝海舟の建議によるもので、船謬場を中心につくられた。
なぜ東京湾につくらないで、神戸につくられたかが問題になるが、摂海防備の1環として生れたもであり、その勝の運営をみていると、中央から離れて自由にふるまいたいということもあったかもしれない。
戸川利郎